一瞬で超える - KOKI YAMADA PHOTOGRAPY

おそらく自分は、このコロナ禍の期間の撮影枚数が圧倒的に少ない写真家の一人だろう。

野生の虎たちに会えない今の状況、それを動物園の虎たちを撮影することで代わりにすることは出来ないし、虎が好きだろうが、単純に虎を見られれば、それで気持ちがおさまるということでも当然ない。

自分はあくまで“野生の虎が生きる今”を写していたい。

だからこそ、当然にシャッターを押せない日々にフラストレーションはあるものの、無理に他の被写体を撮らなきゃいけないという焦りもないし、カメラに触らなきゃいけないという強迫観念に駆られることもない。ただ、カメラから離れる時間が多くなることは、もしかすれば、被写体の動きに対する読みを曇らせたり、瞬間の判断が必要な場面での即応能力を鈍くさせたり、技術的な対応を誤ったりすることに繋がるのかもしれない。

ただ正直そういった、いわゆる“失敗”は、その後の反省や、それ以降の準備の仕方でいくらでも補っていける話だ。

あくまで自分の考えだが、実はそんなことよりも怖いのは、”ただ単に写真を撮ってしまうことが当たり前になっていく事”の方だと思う。
それはもっと言えば、自分の思考自体を持たないままに撮影に入ることだ。
そうした写真からは、自分自身で撮ったはずなのに、伝えたいメッセージなんてきっと見えなくなると思っているからだ。

写真家としてそうはなりたくなくて、だからこそ、シャッターを押せなかった期間、それまでに撮り貯めてきた自分の写真と向き合い、「自分は今まで何を写してきたのか?」ということに徹底的に向き合ってきた。それはまるで自分の思考を思い返す様な作業で、おそらくそこをしっかりと消化することでしか、次に行くことは出来ないと思ったからだ。

(むしろこれまで他の人の数年分にも相当するかもしれない日数を現地で過ごしてきた自分には、向き合えるだけの発表していない作品が多く残っているということ自体、不幸中の幸いなのかもしれない。コロナ禍の状況が悪化の一途を辿らなければ、それらは今年皆さんに発表できる機会があると思うので、是非楽しみにしていて欲しい。)

向き合う時間は本当に苦しかったが、自分にとって、とても意味深かった。前向きに考えれば、そういう時間があって本当に良かった。
撮影したときに曖昧であった思考や、バラバラに宙に浮いていた情報が、向き合うことでようやく繋がり出す感覚を持つことができた。
この感覚を経てこそ、また次の思考につなげていけると考えている。

写真を撮っている時間が少なくなっても、今、間違いなく自分の中に確かにあるのは、
コロナ禍前の自分よりも、被写体とそれを取り巻く世界に対する思考の深みは、今の方が圧倒的に研ぎ澄まされているという感覚だ。

写真はもちろん思考が全てではないかもしれないが、
虎たちに会えない期間を、あとで振り返った時にただのブランクにせず、しっかりと乗り越えて行くには、
自分の思考こそが肝なのだと、今一度、自分自身に言っておきたい。
自分の思考のつながりだけは切らず、虎たちに再び出会った時、それまでに会えなかった時間を一瞬で超えてやりたい。

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